

◆私は、1971年に医大を卒業して、「ゲズントハイト・インスティチュート」を設立しました。当時、医者が3名、スタッフ20名、ベッドルームが6つで、初期のプログラムを12年間、無料で提供しました。しかし寄付申請をした1万4千の財団からは、寄付をすべて拒否されましたが。(※当時はかなり奇異に思われていた)
◆無料にしたのは、貧乏なひとのため、というよりは、近くのコミュニティに属するひとには、医療費を払う必要がない、と考えを知らしめたかったのです。
◆ゲズントハイトでは、71年当時から代換医療をおこなう全米でたったひとつの施設でした。
◆私は当時、医師になるときに、患者ひとりにつき8分で相手の状態を認識するように訓練されましたが、当時ゲズントハイトでは、ひとりにつき4時間かけていました。私は相手に深い質問をすることで、相手の人を、とことん知りたいと思ったのです。
◆私はゲズントハイトで、ユーモアを使うことで、生きることや死ぬことでさえも、面白、おかしくなるようめざしていました。
◆寄付がなかったので、医師やスタッフは他で働いて無料診療を続けましたが、最初の9年間、どのスタッフもひとりとしてゲズントハイトから出て行きはしませんでした。
◆(反ソの)レーガン政権時代には、いまのロシアにも、ホスピタル・クラウンとして出かけていきました。それはいまも続いています(※今も続くロシアでのクラウンニング)。
◆私は今まで1万人くらいの死にゆく人たちと共にいました。そしてそのことによって、自分自身に、とても得るものがあった。へんな言い方ですが、死にゆく人々と共にいることによって、私はある種、幸せになるのです。
◆ケアとは、能動的な動詞で、報酬を考えることなく、時間を通じて、継続的に相手に対する愛情を能動的に伝達していくことです。
◆ナチの強制収容所で3年間生き延びた精神科医ヴィクトール・フランクル(※著書「夜と霧」[みすず書房刊]は今も読める)が、こう言っています。「強制収容所にいた私たちは覚えている。私たちの目の前を収容されている人々が通りすぎ、自分が持っていたパンの最後のひと切れを、他の人に差し出しているのを。そのような人々は少ないかもしれないが、常に私たちは『人生の道を選択することができる』のだ」と。
◆パッチの、ケアに関する「7つの信条」
◆私は海外にクラウニングに行くときは、必ず現地の言葉を最低3つは覚えていきます。ひとつは「お友達」そして「ありがとう」「愛しているよ」です。
◆DVDのこの子は(写真の子とは別です)、脳性麻痺です。私は彼女に対して非常に集中しています。そして彼女に触れています。他のなにも目に入りません。私にとって、存在するのは、まったく彼女だけです。
◆私と彼女は(クラウニングなどを通じて)、楽しい時間を過ごしていました。しかし、彼女はよだれを垂らすのをコントロールできません。思わず、よだれに意識が向かって(はずかしい、という気持ち)、楽しさから出て行ってしまいます。でも、私は彼女に伝えます。「いいんだよ、いいんだよ、さあ私の腕によだれを垂らしなさい」と・・・。
いまは家庭内の介護でも医療の現場でも、ケアする側のひとたちが、燃え尽きそうになる厳しい環境があります。ご自身を大切にしながら、ケアする相手に「私はあなたを大切に思っています」とどう伝えたらいいでしょう?
ひとをケアすることを「自分の喜び」とするには、どうしたらいいのでしょう? パッチさんは、今までも大変厳しい状況を何度も切り抜けてこられました。それは彼独特の「認知」が役に立っているのもしれません。たとえば彼は『越えられるか分からないきびしい状況』→『ユニークな挑戦をドキドキしながら楽しむ』と考えるクセができています。
またどんなひとにも、どんなときにも私たちに必要な「希望」へと今をつなげるために、どうしたらいいのかについても、豊富な事例とエクササイズなどを使って、皆さんと分かち合います。参加者と深く交流するワークショップになると思います。
2010年のワークショップは満員御礼・大好評のうちに
終了いたしました。ありがとうございました。

Dr.パッチ・アダムスのユニークな半日ワークショップがつい先日、無事終わりました。今年2010年のパッチは、時間は半日だけれど、レクチャーではなくてあくまでワークショップ形式でおこなった、ある種ぜいたくなものになった。やっぱりパッチは、相互交流があり体験的なワークショップが断然面白い。会場はもうひとりも入りませんという満席。
今回のテーマは特にいまの日本のひとに大切と感じた「希望」にフォーカスしてくださるようにお願いしておいた(12年間3万人を越える自殺者を出し続けている不思議な先進国日本に、少し危機感もあって)。パッチはいくつかのお決まりのテーマを持っているんですが、それではなくて、「いまの日本に必要だから、パッチさんお願い」とお願いしておいたら、日本に着いたときには、「あー、このひとはこのテーマについて、深く深く深く考えてくださったんだな」、とすぐにわかりました。
当日の1カ月くらい前にパッチからfaxが来て、参加者全員に「事前宿題」を出しておくように指示された。宿題というか、ユニークな事前ワーク。そのなかのひとつは、「希望についての俳句をひとつ作っておくこと」だった。参加者もこの「宿題」を楽しんだようだ。私自身も楽しんだ。ちなみに私の俳句は「希望とは、明日また昇るおひさまのこと」字余り・・・。
私も始まる5分前まで知らなかったが、このワークショップは全編体験エクササイズだらけだった。椅子なんか最初から不要、と言われて260個くらいのイスを急遽参加者といっしょに片づける。たぶん、パッチが講義をしている時間は30分もなかったと思う。
しかし、パッチというひとは、そこにいるだけで空間を「あたたかいもので満たす」ということが自然にできてしまうひと。ああいうのは、彼がいままで「なにを話してきたか」ではなく、「いままでなにを行動してきたか」が自然にからだから溢れ出て、それに近くのひとが感応してしまうから起きるのだと思われる。たぶん、「癒し」というのは、こうした温かい空間に一定時間つつまれることをいうんです。
パッチは「行動のひと」だ。今から40年前に、いまのゲズントハイトのような「夢の病院」をおれは建てて運営するんだ、と宣言。しかし、最初の14年間は1ドルの寄付も集まらず、最初の16年間は、いっしょにやろうという仲間もひとりも集まってこなかった。それでもパッチはあきらめたり、希望を失ったりすることはなかった。それは、なぜかというと、「彼は、その間もその夢に向かって1ミリでも1ミクロンでも、日々行動し続けていたから」。
ひとはひとのために、世界のために「行動」しつづけているとき、決して「希望」を失わないのだ、と。
しかし、パッチ自身はこのワークショップをやるまでは、自分では今まで一度も「希望」について考えたことがないのだと言う。えっ、と思ったが、つまり、彼にとっては「希望は、常に自分とともにあって当たり前のもの」なんです。なぜなら、毎日それに向かって「行動」しているから。
ワークショップの最後に、参加者からさまざまな、とてもユニークな「行動宣言」がありました。たとえば、「毎日乗るバスの運転手さんに、おはよう!! と言います」とか、この方はお医者さまですが、「患者さんがわけのわからないことを言ったとしても、やさしく接します!!」(このお医者さんはいつも患者さんにやさしいんだと思いますが)とか、「子どもを幼稚園に送っていくときに、毎日スキップしながら行きます!」というお父さんはとってもよかった。他にも、「かみさんに怒られても、これからは私は怒らないでいきます」(うーん、そうだよねえ!!)とか、「これから毎日、いたずらします!!」(いいぞう!!)、「遠くにすんでいる祖母に、いま私はなにができるかを毎日考えます」というひとも。どうです、どれひとつとっても、すばらしい宣言でしょう?
こういうふうに、世界は1ミリずつ、そのひとのまわりから良きものになっていくのだと思います。
喜多見 龍一(VOICE主幹)

私にとって5度目の参加(2009,11)となった今回のロシアクラウンツアーは25周年を迎えました。この記念すべき年に日本からは8名もの多くのクラウンが参加したり、パッチの2番目の息子が初めてこのロシアツアーに参加したり、多数のリピーターが参加するなど「シルバーアニバーサリー」にふさわしいツアーとなりました。
最年少は16歳のアメリカ人の男の子、そして最高齢はなんと87歳のオランダ人の男性でした。想像つきますか?87歳のクラウンって!その他70歳以上のクラウンが3人いましたが、とにかく彼らは元気、元気。今回のロシアはご多分にもれず、インフルエンザが猛威を奮っていて、流行にはかからなくとも体調を崩すクラウンが続出しました。
私も、ひどい咳に悩まされ食欲不振と睡眠不足におちいり、体力の限界を感じてましたが、そのご高齢のクラウン達はほとんどペースを崩すことなく過ごしていました。中でも最高齢のクラウンは皆と同じように施設や病院を周り、毎回の食事を残すこともなく、ともに歌い、ときにはダンスのステップをし2週間のツアーを存分に堪能していました。パッチ自身、GesuindHeitのHPにも彼らが参加したことを寄せて誇りに思っている様子が伺えますが、年齢問わず誰でもが参加できるところがこのクラウンツアーの魅力でもあります。ともすれば高齢者は介護される、社会生活からは疎遠となるというイメージがつきまといますが、ここではクラウンとなって世界にでて、自分が必要とされる喜び、相手から喜んでもらえる経験を味わうことができます。パッチもその辺りに意味合いを持たせているのではないでしょうか。
25周年といえば四半世紀。それを毎年欠かすことなく続けてきたことは決して容易なことではなく、10か国もの違う人が出会い、同じ時間を共有するということは言葉ひとつをとっても奇跡に近いことだと感じます。
その根本にはやはりパッチの願う「Peace」が流れ「人」が大好きという何ものにも代え難いクラウン一人ひとりのエネルギーが国の境を越えていきます。
ツアーはモスクワ1週間、サンクトぺテルブルグに1週間滞在しますが、ここ3年ほどサンクトぺテルグルグから合流して一緒にツアーを回るロシアの女の子がいます。
現在は大学生になっていますが、パッチが彼女と初めて会ったのはまだ子供時代、出会った場所は彼女が入院していた病院でした。長い闘病生活を過ごしていた彼女の前に現れた「ちょっと奇妙なおじさん?」それがパッチでした。でもその奇妙なおじさんとの時間は退屈でつらい入院生活にそれまでになかった新しい風と夢のような時間をもたらしてくれました。その後無事に退院した女の子はパッチに手紙を書き、アメリカとロシアで文通が始まりました。彼女はパッチと話すために一生懸命英語を勉強し、やがて成長して大学生となったいま、こんどは自分がクラウンとしてパッチと共に病院を回るようになりました。
毎回、初めて参加するクラウンひとりひとりにパッチは彼女のことを紹介してまわりますが、そのときの彼の表情は実にうれしそうです。おそらく、彼女のような存在がホスピタルクラウンとして生きるパッチにとって最大の喜びであり、その活動を続けていく原動力になっているのでしょう。1年にたった1回、1時間きりの訪問でなんの意味があるのか?と問う人もいるけれど、そのたった1時間を毎年指折り数えて待っていてくれる子供達がいて、たった1回の訪問がその後の人生に大きな影響を与えられたという人も事実たくさんいます。
実は私自身も2005年の中国・チベットでのクラウンツアーで高山病で入院し、九死に一生を得た経験があります。自分ではトイレに行くこともできなくなった私のベッドサイドでパッチは4時間もの間付き添ってくれました。その時の私の体は脳が浮腫するほどかなり危険な状態でしたが、ぎゅっと手を握ってくれたり、子守唄を静かに歌ってくれたり、
或いは知っている日本語を次々並らべて笑わせたりという時間を共有し、心は最高に幸せでいられました。その時受けた究極のケアが自分の進みたい方向への道標となり、現在の私の生活のベースとなっています。パッチは決して自分の考えを人に押し付けたり、指導するようなことはしませんが、パッチの「愛と正義」を優先する行動のひとつひとつが周りの人を巻き込み、種をまいているように思います。周りの人が幸せでなければ自分は幸せにはなれない―パッチから貰った私への時間と愛情から得たこの彼の信条を私も実現できるように行動していきたいと思います。
そして、どうぞ一度はクラウンツアーへ参加してください!
金本麻理子(ゲズンハイト日本人ボランティア・コーディネーター)

パッチ・アダムスを映画から知った、という方は多いでしょう。1998年公開のアメリカ映画「パッチ・アダムス」は、いい役柄が多い、天才的な役者ロビン・ウィリアムスが主演。これをご覧になって泣いた人も多いかと。いくつかを除いて、基本的には事実に基づいて脚本が書かれています。脚本に名を連ねるハンター・アダムスは、パッチの実名。TSUTAYA などの映画レンタルの名画コーナーに必ずあると思いますので、ご覧になってみてください。この映画で事実と異なるのは、殺されたのはパッチの恋人の女性ではなく、友人の男性であること、精神科に入院した年齢がもっと若いことなどでしょうか。

いま入手可能なのは、文庫本「パッチ・アダムスと夢の病院」(主婦の友刊)と、イラストブック「心からのお見舞い」(英潮社刊)。文庫本がいいですかね。 700円だし。いい言葉がいっぱい詰まってます。共著ですが、パッチともうひとりは映画の脚本を書いたひとと同一人物です。そういえば、ヴォイス刊の、言葉があなたをつくる、という内容の良書『「思い」と「言葉」と「身体」は密接につながっている』の序文をパッチ・アダムスが書いていたのを思い出しました。喜多見はその頃から興味があったのでした。

パッチが全人生をかけて実現しようとしている「診療無料」で「ホリスティック」で「アットホーム」な医療を提供する夢の病院。それがゲズンハイト・インスティテュート。ゲズンハイトは「お達者で」の意味のドイツ語。言ってみれば、「お達者で病院」・・・。米国東のウェスト・バージニア州ポカホンタスに土地は確保され、簡単な施設は建っている。これから、個人の募金を中心にしたファンディングで病院の建物を建てようとしています。このインスティテュートができたのは1971ですから、かれこれ40年近くも、パッチは夢に向かって歩み続けいます。本当にすごいのは、この彼の、まったくめげない姿勢ではないでしょうか。実に粘り強く、一歩も彼の理想をゆずることなく、今日もかれは世界を飛び回ってクラウニングをおこない、世界の病院や被災地に彼の笑いと愛を届け続けているのです。

パッチは西洋医だが、「お達者で病院」では、ヒトをより全体的な存在として扱い、西洋医学はもちろん、代替医療やホリスティックな視点も入れて、トータルに癒していくことをめざしています。そしてなによりも、ゆったりした時間のなかで、充分な愛と友情とを育みながら、あるときは、農作業をしたり、絵を描いたり、音楽を奏でたり、自然のなかでおこないつつ、治療するという独特の医療環境をめざしています。日本では、ちょっと違うけれど、立っている場所は「宮沢賢治」が近いような気がします。日本でも、医師の方、医療関係者、ビジネス界の方、さまざまな方が彼の活動に賛同して、サポートをしているようです。

日本でも、パッチとも親交の厚い大棟耕介さんが「ホスピタル・クラウン」というご本を出していらっしゃって、クラウンを養成したり、病院を慰問したりして活躍なさっています。ヴォイスでも以前、笑いのセラピーを教えている先生を招聘していましたが、彼女がカナダの救急車に子ども用の大きなテディベア(ぬいぐるみ)を「医療スタッフ」として乗せるという試みをしていました。この例と似ていますね。赤い鼻やおかしな恰好で、病院の小児病棟などを訪ね、心からの交流をします。つまりヒトは、病だけでなく、ひとりの人間としてホリスティックに回復していくのだ、という考えが根底にあります。もちろん、クスリも使うのでしょうが、クスリに増して大切なのは、そのひとが「幸せ感を感じること」であるとパッチは著書のなかで語っています。日本ではクラウン(ピエロ)の文化はありませんが、そのユーモアあふれる存在感には癒されるものがあります。クラウニングは単純にはピエロを演じることですが、この場合はクラウンの恰好で癒しをもたらす行為でしょうか。それを病院でおこなえばホスピタル・クラウン。1985年から毎年、パッチと日本人も含む仲間たちは、ロシアなどの国々を定期的にクラウニングで訪れており、被災地などにも手弁当で訪ねる活動をしていらっしゃいます。

医師パッチ・アダムス、本名ハンター・アダムス。1945年5月28日生まれ。パッチは、日本語でいえば「ばんそうこう」か。ばんそうこうアダムスのニックネームは、映画のなかで描かれているのが事実であれば、パッチが若いときに入院した精神科の病院にいた富豪の患者から、こうあだ名をつけられたことになっています。ここから彼の人生は大転換をして、愛の医師をめざしジョージ・ワシントン大学の医学部に入学したのが1964年。1967年バージニア医科大学入学。2008年の誕生日で彼は、63歳になられます。まさに団塊の世代で、あの60年代終わりの熱い公民権運動やベトナム反戦などの影響を受けなかったはずはない。しかし年齢を感じさせないエネルギーを今も感じます。病気ひとつしたことがない、と本にも書かれていますが、お電話で話していても「私はエナジェティック(元気まんまん)だから、日本に着いたその日から講演できる」などとお話になっていて、活動的なのですが同時に、静かな環境を好むところもおありです。かつて若いときに、軍人だったお父様の関係で日本にいたこともあり、寿司やウナギも好物と聞いています。アリメカ人でウナギが食べられるひとは、20年この仕事を通じてさまざまな先生と関わりましたが、この人で 3人目です・・・。小説は吉本ばななさん、スポーツは相撲がごひいき。日本にも何度か来日して、講演もおこなってきた。パッチの仲間たちといえるような日本人の医療関係者もいらっしゃいます。ゲズンハイトが完成したあかつきには、常勤スタッフにと誘われている日本人スタッフも。体験談の金本さんもそうしたひとりです。